オリンピック出場を辞退したスケートボーダー、レオ・ベイカーにとって“本当に大事なこと”とは?

トランスジェンダーのスケートボーダー、Leo Baker(レオ・ベイカー)。今最も注目されるアスリートの一人であり、多様性が謳われる時代においてその存在は多くの人々の希望になっている。「NIKE(ナイキ)」を始めメジャーなスポンサーからのバックアップを受け、自身も仲間たちとスケートボードブランドを展開するなどスケーター、そして性的マイノリティの一員として、世界を切り開いている最中だ。現在31歳、現代のヒーローの一人、アイコンと言ってもいいだろう。

そんな彼の姿を追ったNetflixドキュメンタリーがこの『ステイ・オン・ボード: レオ・ベイカーのストーリー』だ。「人生のあらゆる場面で、スケートボードに救われた」と語るレオ・ベイカーが、苦悩や困難の先に見つけた光とは。彼の存在が人々を照らすようになるまでを追った本作は、今を生きるすべての人必見の物語である。

スケートボードが「東京2020オリンピック」を機に正式種目となり、アメリカ代表“女性”選手として見事選ばれたレオ・ベイカー。レオを知る仲間たちはこぞって彼の実力とその努力を賞賛し、知名度的にもオリンピック選出は文句なしだっただろう。しかし、発表では生誕時の名前“レイシー・ベイカー”で呼ばれ、「代表に選ばれたことはものすごい栄誉だけど、どこにいてもしっくりこない」と語っていたレオ。彼はオリンピック選手である以前に一人のトランスジェンダーでプロのスケートボーダーだ。

常に身体と心の違和感や、世間からの視線や疎外感と共にあったと言うレオ。スケートボードのコミュニティにとって、そしてLGBTQ+のコミュニティにとっても、たとえ“レイシー”・ベイカーとしてのオリンピック出場だとしても、その意味するところは計り知れない。彼のキャリアにとってもコミュニティにとっても大きなチャンスなのは間違いないのだ。しかしことはそんなに簡単ではない。誰しもの人生が、それぞれ複雑で多様であるように、レオの人生もさまざまな化身や決断に満ちている。

本作の中盤から“レオ”・ベイカーは、オリンピック辞退だけに限らない、一人の人間としてのさまざまな決心と決断をしてゆく。それは決して簡単な道のりではないが、彼がたどり着いた答えは、後に自身だけでなく多くの人々を救うこととなるのだ。Queer(クィア)のスケートボーダー、レオ・ベイカーがオリンピック出場を辞退した理由。彼にとって“本当に大事なこと”とは、なんだったのだろうか。

カメラが密着を始めたときはまだ20代後半、しかし「ここまで来るのだけでも大変だった」と話すレオ。かつて“レイシー”と名乗っていた頃も、違和感や疎外感に苛まれながら「スケーターとして活動を続けるため」にしばらくはスポンサーの“ガーリー”なイメージ戦略に従っていたと言う。シングルマザー家庭で収入の少ないベイカー親子にとって、生活は“レイシー”の賞金にかかっていた。特に、彼が“少女”だった時代は女子スケーターにとって世に出るチャンスと言えば大会くらいしかなかったと言うから、スケートの世界もかつては旧態依然としていたのだ。

しかし耐えきれず、より男性らしく振る舞いも外見も変えると、今度は大会への出場機会もスポンサーからのサポートも失ってしまったという。世間や社会からの要請と偏見は、彼がなりたいと願う“本当の姿”との軋轢を生んだ。途中、場面が現代に戻り、SNSでジェンダー自認にまつわる投稿をした後の誹謗中傷コメントに涙を滲ませる場面がある。オリンピックへの出場が決まり注目が増えると、同時に心無い批判も増えたのだ。それでも「言い返さないのは、自信がないから」とレオは言う。やはり“レイシー”・ベイカーにとっては、オリンピックへの出場よりももっと大事なことがあるのではないだろうか。例えば「認められ、自由になること」「本当の自分を認め、確かな自信をつけること」など。

人は多くの場合、“本当の自分”になるため、いろんな出来事や障害を乗り越えなければならない。夢や理想のために、努力や苦労はつきものだ。例えばトランスジェンダーであるレオにとって乳房切除手術は、いつか実行しようと思っていた念願のステップだった。しかしカウンセリングをしてようやく予約をとっても、一定期間を要する手術は、大会やツアーで移動の連続の生活を送るプロ・スケーターにとって容易ではない。オリンピック代表選出が決まり、準備が始まるとスケジュール調整はさらに難しいものとなる。決心したにもかかわらず手術ができないもどかしさ。さらには自分のジェンダーに関する誹謗中傷や余計な意見まで否応無しに目に入る状況。それらが折り重なるようにして、レイシーの上に積み重なったのだった。当時はまだ仲間以外から“レイシー・ベイカー”と呼ばれていたことは言うまでもない。

オリンピック準備期間の映像で「スケートをしに行くときだけは気分良くなれた。いつだってそうだった。なのに、ここに来ると必ず気分が悪くなってしまう」と涙ながらに話す姿が映る。彼が自由になれる場所、幸せそのものであるスケートだけでなく、本当の自分であることすら、オリンピックが奪ってしまったのだ。

しかしこの経験が、彼にさらなる熟考を促したのも事実だろう。オリンピック出場に誰もが期待するが、大会が彼自身を傷つけ、損ねているのだとしたら? 自分を犠牲にしてまで出場するべきなのか? 自分にとって最も大事なことは何なのだろう? 悩んだ末、“レイシー”・べイカーはいよいよ人生の決断をするが、競技だけでなく、仲間、恋人、手術、自分のアイデンティティ等、人生の全てにまつわるさまざまな決断へと繋がっていく。それらの決断は自由をもたらし、本当の自分“レオ”・ベイカーであることを可能にし、周囲をも巻き込んでいく。まるで吹っ切れたかのように“人生”という歩みを進めてゆくレオ。新たな扉を開いていくその姿は、晴れやかと言うほかない。

ドキュメンタリーの前半、クィア同士のミーティングで恐る恐る心を打ち明ける場面がある。レオはその体験で手応えと可能性を感じるのだが、このように彼は常にチャレンジし、自分を探し、救い出そうとしてきたのだろう。そしてドキュメンタリーの終盤、手術も終えカミングアウトし、晴れて公私共に“レオ”・ベイカーとなったわけだ。ついに自身の名前の入ったデッキが店頭に並ぶ。彼の決心と行動は自身の思いのほか反響を呼び、スポンサーも名乗り出るようになったのだ。

NIKEのCMにも登場し、念願のシグネチャー・シューズも世に出た。中でも仲間たちとブランド『GLUE』を立ち上げ、LGBTQ+コミュニティと共に新たな挑戦を始めたことは一番大きい出来事かもしれない。「人生を諦めかけたこともある」とまで明かしていたレオが最後「オリンピックを辞退して本当によかった。何が一番大事なのか、僕にはわかっていたんだ。ずっと昔からわかっていたのかもね」と語るシーンは感動的だ。本当に大事なこととはつまり、“自分自身であること”。諦めず、悩み、挑戦してきた彼の表情からは、ようやく手に入れた安堵と喜び、そしてずっと欲しかった“自信”が伝わってくる。

「僕は一人の人間で、トランス男性だ」「自分が向き合うべきことに向き合って、自分の答えを出しただけ」と言うレオ・ベイカー。その言葉は、ただの謙遜ではないだろう。人生はあまりに多様で、それぞれの苦難があることを知る彼は、彼なりの答えを自分のために導き出したに過ぎないかもしれない。しかし、その答えに至るまでの道筋は、彼自身を超えて多くの人々の希望となろうとしている。後続にとって、ロールモデルや前例の存在ほど心強いものはないからだ。

“Stay on board”とは、文字通り“ボードに乗り続ける”という意味にも読めるが、船などから“降りない”という意味にもなる。“On board”し続け、人生を諦めず、決して“降りなかった”レオ・ベイカーの物語。それはこれからも多くの人々の光となるだろう。

『ステイ・オン・ボード: レオ・ベイカーのストーリー』は現在Netflixで配信中だ。

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